相手を怒らせることで自分の存在意義を確かめていた私は、罪悪感の塊だった。

キリヤマのこと

これをしたら相手に「怒られる」「嫌われる」って分かっているのに、なぜかやめられない…

あなたは、そんなパターンに身に覚えがありますか?(2022.11.20再編集)

こんにちは!
心理カウンセラー/セミナー講師の
桐山慶子です。

私には、親密な相手に対して、怒られるようなことばかりしていた時代がありました。

今日は、そんな昔の私の話を。

◆父に怒られたかった。

父に、「怒られたい」と思う自分がいる。

生前は実際にたくさん怒られていた。3人兄弟の長女だったから、真っ先に怒られるのは私。

私は小さい頃はたくさん褒められていたはずだし、父に怒られるのは大嫌いだったはず。

(一方的に怒鳴って私の話を聞いてくれないから)

なのに、いつの間にか怒られるようなことばかりするようになっていたし

怒らない時は父が怒るまで、父の嫌がることをし続けていたと思う。

「これをやったら怒られる」と分かっているのに無意識にやってしまう。



それはパートナーに対しても同じで、

パートナーに対しては、巷でよく言われる「こんな私でも好きでいられるかのテスト」をしていたのかもしれない。

怒られた後は「やっぱり怒られた」「どうせ私はダメだ」と落ち込むのだけれど。

やらなきゃいいのに、やってしまう。

◆職場にいる「怒られたい」人たち。

父に怒られたかった自分がいたことを思い出すのとは別に、浮かんできた人が何人かいた。

それは私の職場で出会った人たち。(知的に障害を持っている人たち。)

彼らの中には、わざと怒られるようなことばかりする人が何人かいる。

怒られるとわかっていてわざと仕掛けてくる人もいるけれど、

それが毎日の習慣であるかように無意識にこちらの怒りスイッチを押してくる人も多いと感じる。

(これがまた不思議なことに、彼らは私たち職員の絶妙な怒りポイントを把握している。)

「彼らの仕掛けてきた感情のワナにハマらない」というのは私たちの重要な仕事のひとつ。

ここで私たちが怒ってしまうと、彼らは

「やっぱり怒られる」「自分はダメな存在」と自己肯定感をさらに下げてしまうから。

動じず、クールに、相手を承認し続けるのだ。

(肉体労働+精神労働のハードワーク。さらに保護者との板挟みミッションもあるうえに低賃金。やり甲斐しかない。)

まぁ、そうは言っても。

かっこよく書いてはみたけど、実際のところは揺さぶられることも多い。

こっち側のコンディションが悪い時は相手の罠にハマりまくりで、めっちゃイライラしてしまう。

(これは子育ても同じかも。)

私が入職するよりもっと前からいた人で、問題行動と呼ばれるようなことばかりする人がいた。

物を投げる、物を壊す、自傷、他害etc…
毎日のようにしていた人。

目を離した隙に…というよりは、職員が近くにいる時に職員を見ながらやることもあるほどの確信犯である。

毎日それが繰り返されると、職員も気が滅入ってくる。
職員がイライラしている姿を見て、その人は笑う。

笑われた職員はさらにイライラする。
職員の反応を楽しむかのように、また何かやらかす。

そして職員はイライラ…。もう、魔のループ。

私は彼らと直接関わることが少ない職種なので、そういう彼らのやりとりを少し離れた場所から見る。

どうしたら、この行動パターンをやめられるんだろう、という気持ちで眺める。

行き着いたのは

「そのやり方でしか人と繋がれない」
「愛で繋がった時の幸福感を知らない(忘れている)」
「〝刺激〟を〝愛〟の代替品にしているかもしれない」のでは?


というところ。

悪いことをした時の方が、職員が自分に注目してくれるし、関わりを持ってくれる。

とすると、怒られてでも関わりを持ちたいと思ってしまうのも無理はないよなぁと思う。

◆「愛」ではなく「罪悪感」で人と繋がっていた私。

私は昔、

「あなたはお父さんと、〝愛〟ではなくて〝罪悪感〟で繋がっている」

と、カウンセラーさんに言われたことがあった。

自死した父を救えなかったと、自分を責める私。

父と愛で繋がれなかった(愛されなかったと思っていた)私は、父に罪悪感を抱き続けることで父との繋がりを作っていたみたい。

親との関係性はパートナーにも反映される。

だから、私はパートナーとも罪悪感を使って繋がろうとする。

ダメンズばかりを選んで(時にはダメンズに仕立て上げて)苦しい恋愛を繰り返していたのはそのせい。

罪悪感は、愛とは全然ベツモノだけど、愛されているような錯覚に陥れる。

感情が揺さぶられるし、かまってもらっている(かまってあげている)感じがする。

「私がいないと」と思う感覚は自分の無力感をごまかしてくれる。

感覚が麻痺して、エスカレートする。

一方、愛や信頼には罪悪感のような刺激がない。愛は穏やかで、ただそこにある。

「自分が何かしなくても大丈夫」と思える感覚になる。

ともすれば、つまらない。



そう。罪悪感の刺激に慣れてしまうと、愛ってなんだか物足りない感じがする。

実際はそんなことないけど、「罪悪感側から見た愛」はそんな風に見えた。

魅力的に映らないのだ。

例えるならば、麻薬の快楽を味わってしまった人が、麻薬なしの世界で生きることに魅力を感じられないみたいなこと。

やってしまった後は苦しいのだけれど、

「(生きていてくれて)ありがとう」や「好き」をもらうより、

「私はダメだ」「こんな私でごめんなさい」を感じている方が生きている気がしてやめられない不思議。

罪悪感は、蜜の味。

だから、罪悪感中毒からの脱却には

「そこから抜け出す」「愛を信頼する」と決める自分の意思が必要になる。

◆罪悪感中毒から脱却しても、罪悪感は無くならない。

今は穏やかな結婚生活を送っている私ではあるけれど、100%の愛で生きているかといえば、そんなことは全くない。

計算高いし、欲まみれだし、嫉妬もするし、自己嫌悪もする。

楽しく過ごせる時間が多くなっただけで、罪悪感を感じることは今でもいっぱいある。

(というか、罪悪感を研究することが私のライフワークみたいな側面がある)

罪悪感で人と繋がっていた時の自分と違うのは、

  • 罪悪感モードの自分を責めなくなった。
  • 「また罪悪感に浸ってるなぁ」とちょっとネタにできるようになった。
  • 自己嫌悪しても、すぐ切り替えられるようになった。
  • 自分優先の時間が増えたし、人に気を使うことが減った。
  • 昔よりは周囲からの愛を受け取れるようになった。

他にも色々あるけれど、総じて自己肯定感が上がった。

今は、愛と罪悪感の間を行ったり来たりする自分を優しい目で見られる。



利用者さんの話に戻ると…

彼らのことが気にかかっていたのは、彼らの中に

「怒られることで存在意義を確かめていた自分」や「罪悪感で人と繋がろうとする自分」が重なったから。

彼らに私ができることは、

「彼らに価値を伝え続けること」とか「自分が愛の世界で生きる姿を見せること(幸せのリーダーシップをとること)」なのかなぁ。

でもそれも、彼らが変わるかどうかは分からない。

自分の罪悪感を手放せば手放しただけ、私が彼らの問題行動を「問題」と思わなくなっていくだけ。

(彼らを「困った行動をする人」という視点で見なくなるので)

そもそも私には「彼らが相手を怒らせようとしている」ように見えていたけど、実際本当にそうなのかは、分からないしね。

自分の気持ちの変遷を綴っただけの話で、特にオチはないのだけれど。

読んでくださっているあなたの心に何か触れるようなことがあれば幸いです。

では、また。

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